2015/09/04

徳を積む行動って?

朝、新聞を読んでおりましたら、とある広告が目に留まりました。

「安岡定子のやさしい論語」

CD12枚にブックレットがついている通販用品です。

 

一瞬買おうか、と思ったのですが、さすがに今はまだいいか、ととりあえず購入はやめにしました。

 

なぜ購入を考えたかというと。

広告の中に、こんなのがあったんです。

 

「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り。」(第1巻、第9巻)

(孔子先生がおっしゃった。「徳を身に着けた人は、決して孤独にはならない。必ず理解し、寄り添ってくれる人が現れるものだ」(読売新聞 広告より)

 

この言葉に、私は目を奪われました。

私の個人的な考え方ですが、人生はいかに徳を積んでいくか、そして、いかに業を清算するかというのがあります。

 

徳を積んでいる人、結果として行動が徳になっている人には、必ずよき理解者、よき支援者がいて、いつも支えてくれるわけです。

 

しかし、孤独な人、孤立している人は、どれだけ徳を積む行動をしていたとしても、結果として周りや自分に還元されないから、徳が積み重ならない。

 

私はこう解釈しています。

 

徳を積むって、なんか貯金に似ているかもしれませんね。

徳というお金を心の貯金箱に貯金していく。

ただし、使いすぎたりよくない行いをすると、業という借金を背負う。

 

じゃあ貯金してたまった徳は何に使えるのか。

それは徳のない私ではわかりません(笑)

 

たとえるならば、死後の魂の居場所が徳で決まるのかもしれませんし、輪廻転生する時に来世での生まれ変わりの希望が通りやすくなったり、来世に貯金として持って行けたり、まあ想像すれば面白いわけです。

 

例えば、ある善行をしている人がいたとします。

その行いは、多くの人にとってすごく救われる行いで、救われた人たちは善行をした人に心から感謝します。

これだけなら、善行を行った人の徳になりますよね。

 

では、ここで2つのパターンを示します。

善行を行った人の行動原理が、愛情から行った行動なのか、罪悪感から行った行動なのか。

 

これって、どこに違いがあるでしょう。

 

実は、行動そのものには全く違いがありません。

された側からすれば、どちらも同じなんです。

 

ところが、した側には、明確な違いがあります。

愛情から行った行為は、「ただしたいからした」程度のもので、欲も何もなく、非常に純粋なんですよね。

それが結果としていいか悪いかは別として、愛情からくる行動は、多くの人の心を純粋に打ちます。

 

罪悪感から行った行動は、罪悪感(自分に対する罪の意識)が根底にあるため、その行動が「罪ほろぼし」のような感じになります。

つまり、罪悪感を持っている分だけ、その罪悪感を埋め合わせる行動と、本人は解釈するわけです。

これが無価値感(自分は役に立たないという気持ち)のときも同じですね。

罪悪感がある場合、実は心は「孤独」です。


はい、話が最初に戻りましたね。

心が孤独な人は「徳」ではありませんでしたよね。

 

意外と見落とされがちなこの「行動原理」

例えば、しつけも愛情からくるしつけは子供のためになりますが、欲求や期待、コンプレックスや怒りなどからくるしつけは、虐待になるんです。

 

さて、皆さんはその行動は愛情からですか?

それとも、罪悪感や無価値感からですか?


 


カウンセリングスタディスクール トップページへ