誤り
ある日のことです。
全ての用事が終わって、さあ帰りに夕食のおかずでも買って帰ろうかと思い、銀行のATMに立ち寄ったんです。
いざお金をおろそうとした時に、初めて異変に気が付いたんです。
財布がない・・・
服のポケットを全部探してみても、カバンの中をひっくり返してみても、どこにも財布は見当たりません。
さあ、焦りますよぉ。
最後に財布を手に取った記憶を必死にたどります。
昨日コンビニでEDYのチャージをしたときには持っていた。
そのあと買い物をしたときもあった。
朝電車に乗るときは、パスもだから財布は触ってない。
カフェに行った時も、財布を出してない。
お昼もEdyで済ませた。
結果、今日一日財布を触っていなかったんですねぇ。
私は結構コンビニで忘れ物をする悪い習慣があり、今までにnanacoやEdyカードなど、10枚近くなくしています。
Edyを沖縄に忘れてきた、なんてのもありましたね。
結局財布はとあるところから無事発見され、事なきを得ました。
いやあ、そこにあると思いこんでいたものがないと、焦りますよねぇ。
一瞬頭が真っ白になって、かる~くパニックになりかかります。
焦ると、人は冷静な判断ができなくなりますね。
それこそ、人に八つ当たりしたくなったり、なりふり構わなくなったり、その意味では、素の自分がよく出る瞬間かもしれません。
だからといって、どんな時でもうまく対応できる人、なんてのはなかなかいないものです。
訓練を受けた人でさえ、判断を誤る時だってありますからね。
私個人の意見として、最大の問題は判断の誤りを許容しない風潮と、個人の権利を尊重しすぎて、本末転倒な結果になることは、さすがにどうだろう、と感じます。
新聞記事で、栃木、茨城の水害で行方不明者の氏名を公表しなかったり、10歳の女の子が児童相談所を「虐待に対して適切な対応をとらなかった」として提訴したり、というのを読みました。
氏名の公表に関しては、何より人命救助が優先されますし、法律でも規定されていますので、公表する選択もあったでしょう。
でも、例えば公表して、市民などから「なぜ公表した!」とクレームが来るかもしれない、と思ったら、公表する勇気は出るだろうか、と感じるわけです。
児童相談所のお話は、母親が相談所との面談に応じず、指導を打ち切ったんですよね。
その後学校から相談所に一時保護を求めたにもかかわらず、対応しなかったことが提訴の理由のようです。
この場合も、子供の命を守る、という点では、相談所の行動は消極的過ぎたといわざるを得ないと感じるところはあります。
しかし、人のプライバシーにどこまで踏み込むかについては、各個人、各相談所の裁量に任されているようなものなんですよね。
カウンセリングでも、虐待やDVを受けている方のカウンセリングは、ちょいちょいありました。
カウンセラーは一番に命を守ることを優先しますから、その選択を提示します。
カウンセラーにはゲートキーパーとしての役割がありますからね。
このような問題を耳にするたび、個人的に感じるのが、責任の所在を追及することは悪いことではないし、責任をとることの大切さも理解できるわけです。
ただ、それが「弾劾」になってしまったり、行き過ぎた個人主義になってしまうと、今まで以上に責任をとることを恐れて、何もしなくなったり消極的になったりするのではないかな、と感じます。
いつから「赦す」ことを許容しない世の中になったのかなぁ、と、ちょっとしんみりしている今日この頃でした。
最後になりましたが、水害で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
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