2016/1/16

21年前(1)

この内容は、昨年1月にメーリングリストで連載したものです。

 

私にとってこの時期は、ちょっと特別な時期になります。

 

 

 

1995年1月17日

 

 

 

そう、阪神•淡路大震災です。

 

 

 

TVチャンピオン以上に、私にとって避けては通れない出来事ですね。

 

 

 

あまり楽しい話題ではないのですが、皆様にはしばらくおつきあいをいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

1995年1月4日

 

 

 

この日は、祖母の訃報から始まりました。

 

 

 

慌てて両親と帰省の準備をし、翌日から始まる職場への忌引きの準備に追われます。

 

 

 

当時つきあっていた嫁にも連絡をして、慌ただしく正月の終わりを向かえました。

 

 

 

1995年1月5日

 

 

 

朝会社に行き、忌引きの連絡をして、家にとんぼ返りしました。

 

 

 

昼から飛行機に乗って、一路鹿児島へ。

 

 

 

田舎についたのが日もとっぷり暮れた頃ですから、およそ8時間近くの移動です。

 

 

 

まあ私の田舎は本当の田舎で、信号機がついたのが1994年ですから、それまでは信号機すらない超ど田舎です。

 

 

 

当時は五右衛門風呂が現役でしたしね。

 

 

 

そこからが大変なんです。

 

 

 

なんで九州の人はあんなに飲むんでしょうねぇ。

 

 

 

通夜から7日間、ひたすら飲んでますからね。

 

 

 

土間には焼酎の瓶が100本積まれていて、これがなくなるわけですから。

 

 

 

当時の私はお酒が飲めましたので、つきあって飲んでいたのですが、さすがに九州人のペースにはついていけない。

 

あとはただひたすら線香の番をするだけです。

 

 

 

徹夜ですよ、もちろん

 

 

 

翌日の葬式に参列し、祖母を送り、一泊して私一人先に家に帰る事にしました。

 

 

 

肝臓が持たないから、ではありませんよ(笑)

 

姉が家に残ってましたからね。

 

 

 

家に帰って用事を済まし、ふとある事に気がつきました。

 

 

 

テレビが映らないんです。

 

 

 

キー局は映るんですよ。

 

 

 

でも、ローカル局が全然映らない。

 

 

 

私の住んでいるところは、神戸でも一番電波感度がいいといわれているところです。

 

 

 

ラジオだったらイスラエルの放送だって入ります。

 

 

 

でも、一番近くの放送局がなぜかみれない。

 

 

 

アンテナの故障かと思って気にしなかったのですが、これがまさか前兆とは思ってもいませんでした。

 

 

 

続きます。