21年前(1)
この内容は、昨年1月にメーリングリストで連載したものです。
私にとってこの時期は、ちょっと特別な時期になります。
1995年1月17日
そう、阪神•淡路大震災です。
TVチャンピオン以上に、私にとって避けては通れない出来事ですね。
あまり楽しい話題ではないのですが、皆様にはしばらくおつきあいをいただきたいと思います。
1995年1月4日
この日は、祖母の訃報から始まりました。
慌てて両親と帰省の準備をし、翌日から始まる職場への忌引きの準備に追われます。
当時つきあっていた嫁にも連絡をして、慌ただしく正月の終わりを向かえました。
1995年1月5日
朝会社に行き、忌引きの連絡をして、家にとんぼ返りしました。
昼から飛行機に乗って、一路鹿児島へ。
田舎についたのが日もとっぷり暮れた頃ですから、およそ8時間近くの移動です。
まあ私の田舎は本当の田舎で、信号機がついたのが1994年ですから、それまでは信号機すらない超ど田舎です。
当時は五右衛門風呂が現役でしたしね。
そこからが大変なんです。
なんで九州の人はあんなに飲むんでしょうねぇ。
通夜から7日間、ひたすら飲んでますからね。
土間には焼酎の瓶が100本積まれていて、これがなくなるわけですから。
当時の私はお酒が飲めましたので、つきあって飲んでいたのですが、さすがに九州人のペースにはついていけない。
あとはただひたすら線香の番をするだけです。
徹夜ですよ、もちろん
翌日の葬式に参列し、祖母を送り、一泊して私一人先に家に帰る事にしました。
肝臓が持たないから、ではありませんよ(笑)
姉が家に残ってましたからね。
家に帰って用事を済まし、ふとある事に気がつきました。
テレビが映らないんです。
キー局は映るんですよ。
でも、ローカル局が全然映らない。
私の住んでいるところは、神戸でも一番電波感度がいいといわれているところです。
ラジオだったらイスラエルの放送だって入ります。
でも、一番近くの放送局がなぜかみれない。
アンテナの故障かと思って気にしなかったのですが、これがまさか前兆とは思ってもいませんでした。
続きます。
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